<文化+>台湾料理、懐かしの味 人々の記憶の中に残る「酒家菜」

2021/05/10 02:07 文字サイズ: 字級縮小 字級放大

本記事は中央社の隔週連載「文化+」の「彼時那會兒的溫柔鄉 娓娓道來的酒家菜」を翻訳編集したものです。

台湾は移民社会だ。400年の歴史の中で、さまざまな民族がこの島で暮らしてきた。そのたびに異なる文化をもたらし、今の多様な台湾となった。社会や文化というのはさまざまな面から観察できるが、料理というのはその最たる例だろう。

台湾料理の代表的なものとして「酒家菜」(ジョウジャーツァイ)というのがある。文字通り、酒と共に楽しむ料理だ。だが、俗に言う「つまみ」を連想するとしたら、それはこの土地で長年育まれてきた歴史や文化を過小評価していると言わざるを得ない。大昔のことだ。長い時間をかけて醸造した酒のように、酒家菜を生んだ「酒家」の物語もじっくりと味わってみてはいかがだろうか。

<文化+>台湾料理、懐かしの味 人々の記憶の中に残る「酒家菜」



▽戦後に登場した「酒家菜」 特有の時代の産物

酒家菜はしばしば、台湾料理の代表として挙げられるが、台湾料理を10年以上研究している政府系研究機関、中央研究院の研究員、曽品滄さんは、「それでは台湾料理に対する想像を狭めてしまう」と首を振る。

酒家菜が台湾で発展し始めたのは戦後だった。「戦後初期という独特の時空で生まれた料理なんです。特有の時空、特有の環境の下で発展した一種の業態というか、ある種の運営手段ですね」。曽さんによれば、酒家菜は酒と一緒に楽めるよう簡単なものが多いが、簡易化されたその過程に味わい深いものがあるという。

▽日本人の好みに合わせて変化した戦前の料理

時をさらに、20世紀初頭までさかのぼろう。日本統治下にあった時代だ。「『台湾料理』というのは台湾に来た日本人が、日本と違う食べ物として付けた名称なんです」。中国料理や日本料理と区別することで、植民地としての台湾の異国情緒をより際立たせるのが狙いだった。

大正12(1923)年には、後の昭和天皇となる皇太子裕仁親王が摂政宮として台湾を行啓。当時の総督、田健治郎は西洋のように近代化された台湾を見せることを最重視したが、裕仁親王に台湾の味を体験してもらいたいとも考えた田は台湾料理の宴会メニューを考案した。

裕仁親王(後の昭和天皇)が台湾行啓の際に食した宴会料理を再現したコース料理=シルクスプレイス台南提供

裕仁親王(後の昭和天皇)が台湾行啓の際に食した宴会料理を再現したコース料理=シルクスプレイス台南提供

台湾行啓の記録「鶴駕奉迎之記」に記された宴会料理のリスト=シルクスプレイス台南提供

台湾行啓の記録「鶴駕奉迎之記」に記された宴会料理のリスト=シルクスプレイス台南提供

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ツバメの巣、七面鳥、フカヒレ、カニ、白キクラゲ、スッポン、ナマコ…。リストには高級食材がずらりと並ぶ。台湾師範大学の陳玉箴副教授は、「現代の結婚式に出される料理と通ずるものがある」と指摘する。調理を担当した料理人は、当時の台北の高級店「江山楼」と「東薈芳」から選ばれた。

曽さんによれば、これらの料理人の多くは中国の福建から渡ってきた者が多かったが、日本人の好みに合わせて味付けを変えていたため、徐々に中国の料理とは違うものになっていったという。

各店はより多くの客の胃袋をつかむため、趣向を凝らす必要に迫られたことから、中国各地の料理に加え、台湾ならではのメニューも考案されるようになった。江山楼と肩を並べた名店「蓬萊閣」では1156点もの料理がメニューに並んだという。

これらの高級店は「酒楼」と呼ばれたが、酒楼が衰退すると女性の接客を受けながら酒を楽しむ「酒家」に姿を変えていくようになる。

蓬萊閣の看板

蓬萊閣の看板

▽ホステスの出現で変化する文化と料理

曽さんによると、台湾で最初の酒家は日本統治時代に活躍した台湾人画家、楊三郎の兄、楊承基が1931(昭和6)年に台北の大稲埕に開業した「維特」という店だ。「喫茶店のような洋風レストランを目指していたが、繁盛しなかった」。そこで、日本で流行していた「カフェー」を参考に、女性が接客するサービスを導入した。すると、たちまち人気店になったという。第2次世界大戦が終わるころには、当時最もにぎわっていた大稲埕に酒家が林立するようになっていた。

戦前、高級店とされていた酒楼はというと、終戦とともに勢いを失っていった。日本人が去り、中国大陸から多くの人が渡ってくると、台湾、日本、中国の要素が融合された酒楼は下火に。「中国からやってきた人々は台湾料理を正統なものではないと考えたのです」。倹約を唱えた国民党政権が宴会に高額な税を課したこともあり、酒楼は経営が難しくなっていった。

一方、酒家については風俗業が公然と認められることはなかったものの、官僚や議員の接待の場として定着していった。「女性がサービスを提供することで、客から金を取りやすくなりました。店側はその売り上げで納税できるので、生き残るのに有利になったのです」。時代とともに接待の形が変わり、文化にも大きな転換をもたらした。

「酒家で重要視されるのは料理じゃなくなりました」。酒とホステスが主力商品となった上、多くの客が食事を済ませてから来店することも相まって、食材は削減されるようになり、料理も簡易化されるようになった。本来なら12品出されるフルコースは半分の6品に。スープのほか、炒めものや揚げものが中心となり、速く出せて酒に合い、満腹感を得られる料理が人気を集めた。

▽舞台は北投へ 独特の解放感、サービス多様に

酒家は台北中心部から少し離れた北投にも広がっていくようになる。日本統治時代生まれの料理人、黄徳興さんは回顧録「台湾菜的蓬萊百味」で、北投では温泉付きの宿泊施設が多かったが、繁盛しなくなると酒を楽しむ場が増えていったと振り返っている。

「北投の特殊な娯楽産業の生態は、台北の経営者たちを引きつけた。台北で酒家をやっていた業者も北投に移り、宿泊施設という名目で酒家を経営するようになった」。店舗の家賃は台北より安く上がる。さらに、警察や行政には裏で金品を渡して関係を築きさえすれば安定して商売が続けられたという。

曽さんによると、60~70年代、日本の商人をもてなす場に北投が選ばれることが多かった。そこでは温泉のほか、性的なサービスも提供されていたという。「台北では、せいぜい女性が酒に付き合うくらい」。台北にはない解放感の中で「北投にはもう少し踏み込んだサービスもあった」

求められる料理が変わり、黄さんも従来出していた料理をより速く出せるように、自身なりに改良したことを回顧録で語っている。鶏の内臓や缶詰めを使った料理などだ。人気の料理は食材をあらかじめ何人分も用意しておき、客が来たらすぐに炒めて出せるようにしていたという。

豚の腸で鶏肉を包んだ「肚包鶏鍋」=金蓬萊遵古台菜提供

豚の腸で鶏肉を包んだ「肚包鶏鍋」=金蓬萊遵古台菜提供

▽風俗の規制で廃れた酒家 料理は思い出とともに

北投の酒家文化の盛況もつかの間。風俗業の規制とともに衰退していった。売り上げが見込めなくなり、料理はより簡素なものになった。業者も早々と撤退していき、酒家の没落を早めた。

「北投に栄光は訪れたが、それもいっときにすぎなかった。長い目で見れば失敗だった」と黄さんは嘆く。政府が風俗の規制に動くと知ると、業者は店の外観に金をかけなくなり、観光客の足も遠のくようになった。台湾の経済が発展し80年代に入ると、台北市内には大きなホテルが相次いで開業し、北投の魅力は薄れた。

こうして、酒家とともに料理も姿を消し、その味は当時の常連客たちの記憶の中だけに残るものとなった。当時を知らない若者や食べられる機会に恵まれなかった人々は想像を巡らせることしかできない。

ただ曽さんは、彼らが懐かしむのは決して料理だけではないと話す。「店の中に流れていた音楽と、女の子がいる、あの雰囲気。ただのレストランとは違う魅力があった」。今の北投であの味が楽しめる店はもうないという。

かつて有名な酒家の1つだった「吟松閣」

かつて有名な酒家の1つだった「吟松閣」

(陳凱棠/編集:楊千慧)