本記事は中央社の隔週連載「文化+」の「用味道感受歴史 金蓬萊承載酒家菜老時光」を翻訳編集したものです。
台北市天母に位置する老舗台湾料理店「金蓬萊」。店内は休日が訪れるたび、多くの人でにぎわう。空前のパンデミックが起きるまでは、ミシュラン1つ星を獲得したこの店の料理にありつくのは至難の業だった。観光客が占めていた割合は2割程度で、国内の混乱がひと段落すると平日の昼さえ、連日満席。昨年8月に再び1つ星の評価を得ると、店の活気はさらに増すようになった。
その核となる厨房へ入ってみると、料理人たちはそれぞれの役割に勤しんでいた。鍋に詰まった熱々の油に、粉をまぶしたパイコー(骨付き豚ばら肉)を慣れた手つきで投げ入れていく。代々受け継がれてきた秘伝の味だ。表面が黄金色になったら、鍋からさっと出す。
まだ熱いパイコーを手でつかんだかと思いきや、両手の親指でぎゅっと押した。肉から骨を少しだけ外に出す作業だ。そこからさらに違う温度の油で揚げることで肉汁と水分は中に閉じ込められ、外はカリッとした仕上がりになる。
誕生から70年余りが経つこの「パイコー唐揚げ(排骨酥)」。金蓬萊の看板メニューでありながら、台湾のシニア世代にとっては懐かしの味でもある。
「祖父の代から作り方は変わっていません。1番上の孫なので、(継承者として)責任があるんです。私の代で味が変わるということはありません」。3代目店主の陳博璿さんは胸を張る。
▽金蓬萊の味を生んだ北投 繁栄から衰退まで
博璿さんの祖父、良枝さんこそが金蓬萊の創業者だ。1950年、北投に麵屋を構えたが、北投では当時、女性が接待する「酒家」が流行していたことから、酒家で提供する料理を売るようになった。当時の店名は「蓬萊食堂」と言った。
日本統治時代、温泉地として開発された北投。「熱海」を思わせるその風情は、日本の政府高官たちの故郷を思う心をいやしたが、戦後に国民党が政権の座に就くと、酒家が林立するようになり、独特の文化を形作ったのだった。
北投が最も栄えた時代だったと言える。「2階で宿題をやっていると、隣からよく歌声が聞こえてきた。酒家で働く女性、酔って吐いている人もよく見かけた」。そんな大人の姿を目の当たりにしていた博璿さん。「子供のころからすでに人生の山とか谷とか、そういうものを見てきた」
博璿さんの印象に最も残っているのは、当時の北投の雰囲気だ。「昔、家の入口にあった小さな川は温泉で、毎日、硫黄のにおいがしていました」。連日、多くの人でにぎわい、旧正月後に最初に迎える満月を祝う元宵節の際には、爆竹がさく裂。紙くずで地面が埋め尽くされるほどだったという。
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▽かつての栄光 引き継がれる味
1979年、風俗業の取り締まりが厳しくなると酒家は衰退し、北投のにぎやかさも失われていった。だが、陳家の味がそれによって途絶えることはなかった。87年、博璿さんの父が天母に店を移し、店名も今の「金蓬萊」に改められた。博璿さんの手にバトンが託されたのが99年。「蓬萊」という文字には北投時代の思い出が宿る。
看板メニューのパイコー唐揚げは70年代の北投名物とされ、各店の料理名に「蓬萊」の名が冠されたほどだった。博璿さんの手によってその味にさらに磨きがかけられた。
おいしさの秘訣は、陳家の男子に継承されてきた秘伝の味だ。博璿さんの妹、莉莉さんは「父と兄は小さな部屋で隠れて作っていました。レシピは祖父が考案したものです。味は私が子供の頃から変わっていません。もしかしたらもっとおいしくなっているかも」と話す。
もともと使われていたのは小さめの肉だったが、初代店主である良枝さんが客に喜んでもらおうと棒状の肉にし、箸がなくても手づかみで食べられるよう工夫を施した。酒を飲みながら、熱々の肉にかぶりつけるというわけだ。
博璿さんは自身の祖父や父親よりも細部にこだわる。肉の1本1本の大きさをなるべくそろえ、一定の手順にのっとって作ることを徹底する。継承したものをより慎重に、より細部まで追求してきた。
▽酒家料理、現代に再び じっくり煮込まれた歴史の味
博璿さんは金蓬萊を「酒家料理店」と位置付けている。「酒家」という名からいかがわしい店の料理と思われることもあったが、気にしていない。それは、酒家料理が独特の時代背景にあった北投から生み出されたもので、自身がそれを引き継いだからだ。「あの時代を経験しているからこそ、北投の良さが分かる」。博璿さんにとっては、歴史的な意義を持つ場所だ。
店内の個室には、かつて北投で名を馳せた有名酒家の名がずらりと並ぶ。VIP室には「流し」(※)のバンドを呼び、パーティーを開くこともできる。その様子は、かつての北投で良く見られた光景と重なる。
(※流し=酒場でギターやアコーディオンなどの楽器を手に、客のリクエストに応えて演奏する歌い手。台湾でも広まり、日本語の発音がそのまま名称として定着した)
料理を出す順番も、酒家のルールに倣っている。博璿さんはこれを「起承転結」と説明する。「似たような味の料理は同時に出さない。揚げ物同士もだめ。甘いもの、汁があるもの、味が濃いものをバランス良く。しめの料理はツブ貝とイカの鍋です」。酒は人の味覚を鈍らせる。鍋のスープで腹を温め、酔った体を回復させれば、また酒を楽しむことができる。先人の知恵だと博璿さんは語る。
祖父の良枝さんが昔、よく作ってくれたというアワビのチャーハンを正式にメニューに加えた。形を整えるために切ったアワビの端の部分をチャーハンにしてよく食べさせてくれたという。シンプルなようで、蒸す、炒める、煮込むという一つ一つの手順には絶妙な火加減が不可欠だ。
「全ての料理で、われわれが売っているのは時間です」。食材選びや仕込みにかける手間ひまは全て、調理する一瞬のためにささげられる。「でも客が買うのは、われわれが注いだ真心なんですよね」。博璿さんはまるで芸術家だ。鍋を大きく振ると、料理に魂が宿る。彼の作品とも呼べる料理の数々は、人々の記憶に残り続けるだろう。
※記事の内容は原文掲載当時(2020年12月)のものとなります。