日本統治時代の修学旅行」を再現 異色のトラベルガイド作者インタビュー

2021/02/25 06:13 文字サイズ: 字級縮小 字級放大

1979年生まれの女性旅行作家に、ある日突然舞い込んできた、歴史がらみの仕事の依頼。依頼主は、南部・台南市の国立台湾歴史博物館。同館が多数収蔵する、日本統治時代の卒業アルバムを利用して、当時実施された修学旅行のルートを旅行作家の目線で、親しみやすく再現してほしい、という内容だった。それまで歴史とはあまり縁がなかったという彼女。「旅行」と「日本統治時代」という2つのキーワードに強く引き付けられ、思わず二つ返事で快諾。こうして出来上がった「少男少女見学中~日本時代修学旅行開箱」(蔡淑君著、玉山社出版)は、2020年11月に出版された。作者の蔡淑君さんにメールでインタビューし、苦労話や日本の読者に勧めたい箇所などを聞いた。

「少年少女見学中~日本時代修学旅行開箱」は、日本統治時代に実施された修学旅行を、旅行作家の目線で親しみやすく再現した1冊。(写真=玉山社提供)

「少年少女見学中~日本時代修学旅行開箱」は、日本統治時代に実施された修学旅行を、旅行作家の目線で親しみやすく再現した1冊。(写真=玉山社提供)

▽戦後生まれの作者にとって「日本統治時代」とは

日本統治時代は、第二次世界大戦の終了とともに終わりを告げた。対日戦争に勝利した中華民国は台湾を接収し、国民党政権によって「中国人」としてのアイデンティティー教育が施された。その結果、日本による50年間の統治は、「占領」「占拠」として扱われるようになり、徐々に日本との関連は薄れていった。それでも、国民党の一党独裁体制から、国民による総統の直接選挙が行われるまでに大きく変貌した民主化の流れの中で、過去に対する捉え方も多様化し、歴史的価値のある建造物を修復、再活用する動きも活発になってきている。

作者の蔡淑君さんは、国民党のイデオロギー教育を受けた世代。日本に対していいイメージがなくても不思議ではないはずだが、にも関わらず「日本統治時代」というキーワードに引き付けられたのはなぜか。

「離島・澎湖で生まれた私は、祖父母からよく日本統治時代のことを聞いたり、日本語の童謡を聞いたりして育ちました。結婚して南部・台南市に移り住みましたが、父親が日本に留学していたという義父一家は日常会話に日本語を多用し、兄弟姉妹の間では今もなお、日本語の名前で呼び合っているほどです。私の子ども時代、当時のことは『占領』、『占拠』などといった言葉で語られていたものですが、数年前、当時小5だった娘の教科書を見て、解釈が変わっていることを知りました。そこで日本通の義父にいろいろと話を聞くうち、もっと理解したいと思うようになったのです。」

このような体験が下地となり、国立台湾歴史博物館の依頼を受けた蔡さん。だが、歴史をたどる作業はたやすいものではなかった。出版社から送られてきたのは、分厚い卒業アルバムのコピーや文献。最初は、山のような資料に囲まれて途方に暮れたという。

国立台湾歴史博物館の依頼を承諾した蔡さんがまず最初に行ったのは、提供された参考ルートを台湾の地図に描いて、注目すべき点を洗い出すことだった。(写真=蔡淑君さん提供)

国立台湾歴史博物館の依頼を承諾した蔡さんがまず最初に行ったのは、提供された参考ルートを台湾の地図に描いて、注目すべき点を洗い出すことだった。(写真=蔡淑君さん提供)

その一方で、予想外の“気付き”もあった。それは、「数十年前の卒業アルバムが、(90年代に中高校生だった)自分の時代とあまり変わらない」こと。「日本統治時代に始まったことが、台湾の日常に残されている」と驚き、仕事で歴史に携われることへの興奮すら覚えたという。作品をより充実させたいと、台湾の観光地や旅行記、日本語の論文などを一つ一つ翻訳したり、日本語教育を受けた世代の高齢者を取材したりと、さまざまな試行錯誤を続けながら執筆を進めた。完成間近の原稿を一から書き直さなければならないこともあった。

日本語の資料に書き込まれた、蔡さんのメモ。「せっかくもらった資料や文献なのだから、書かれている情報をしっかり読み取らなければ一番大事な所が抜けてしまう」と考え、がんばって熟読した。研究論文を読んだ時には、「歴史学科の学生になったようだった」と振り返る。(蔡淑君さん提供)

日本語の資料に書き込まれた、蔡さんのメモ。「せっかくもらった資料や文献なのだから、書かれている情報をしっかり読み取らなければ一番大事な所が抜けてしまう」と考え、がんばって熟読した。研究論文を読んだ時には、「歴史学科の学生になったようだった」と振り返る。(蔡淑君さん提供)

▽作者のおススメは、“内地”から来た学生向けの台湾一周コース

同書で紹介されているのは、比較的資料が充実している1930(昭和5)年以降に実施された6コース。移動時間や方法、宿泊場所、訪れた場所が分かる限り調べられている上に、それらの場所の現況も記されている。

この中でもとくに蔡さんがイチ押しするのは、台中師範学校(現・台中教育大学)が1932(昭和7)年に実施した、9泊10日の台湾一周旅行。蔡さんによると、この旅行の参加者は、日本で生まれ、同校に進学したいわゆる“内地人”。旅行という機会を借りて、台湾という土地の輪郭や今後の教育現場への理解を深めるのが目的だった。

一行は台中から汽車に乗り、基隆で乗り換えて北東部・宜蘭に向かい、そこからバスに乗って海沿いの道を一路、東部・花蓮へ。観光名所として名高い太魯閣(タロコ)峡谷の景色を堪能した後、台湾初の移民村、吉野村を見学。さらに南下して台東に入り、先住民の集落やもう一つの移民村、旭村を訪ね、見聞を広めた。ここまでで5日が経過。6日目と7日目は徒歩で山を越え、最南端の屏東を目指す。歩いた距離は2日間で11里半(約45キロ)に及んだ。屏東では、1874(明治7)年の牡丹社事件(台湾出兵)で旧日本軍と先住民が交戦した「石門古戦場」や、事件のきっかけとなった、先住民に殺害された宮古島島民の墓を訪ねた模様。最後の2日間で、高雄から台南を経て台中に戻った。

参考資料のかずかず。左は、旅行中の注意事項がこまごまと記された「旅行心得」。台北州立第三高等女学校が1942(昭和17)年に行った3泊4日の中・南部修学旅行で配られた。右は、1930(昭和5)年に書かれた台湾南部修学旅行記。(蔡淑君さん提供)

参考資料のかずかず。左は、旅行中の注意事項がこまごまと記された「旅行心得」。台北州立第三高等女学校が1942(昭和17)年に行った3泊4日の中・南部修学旅行で配られた。右は、1930(昭和5)年に書かれた台湾南部修学旅行記。(蔡淑君さん提供)

▽蔡淑君さん「歴史は日常の中にある」

蔡さんは自著について、こう振り返る。「執筆は非常に大変でしたが、出来栄えを見て、ほっとしています。台湾と日本の間には、日本統治時代の50年によって、深いつながりが築かれました。修学旅行でマナー順守が求められたり、作文を書いたりするのは、今の台湾でも全く同じで、卒業アルバムのレイアウトも似たりよったり。時代を超えた共通の思い出といえると思います」

中部・台中市で昨年11月に行われた新書発表会では、祖母が修学旅行で日本に行ったという人や、日本語教育を受けた家族がいるが、修学旅行については何も知らなかったという人などに出会ったという蔡さん。「歴史は、博物館や難しそうな本にだけ隠されているのではありません。私たちの日常の中にあるのです」とつづり、執筆を通して、1910(明治43)年に離島・澎湖で生まれ、家庭の事情で公学校に2年間しか通えなかった祖父が、死ぬまで日本に行きたがっていた気持ちを理解することができたと明かした。

日本統治時代を生きた青少年と現代の旅行作家が「修学旅行」で結び付いた1冊、「少男少女見学中~日本時代修学旅行開箱」。中国語版しか出版されていないものの、国立台湾歴史博物館が収蔵品をデータベース化した「校園生活資料庫」でも、当時の台湾の資料を見ることができる。

1924(大正13)年の台湾。上は、台北郊外の温泉地、北投の「北投温泉公共浴場」でリラックスする台湾総督府医学専門学校の学生、下は、南部・台南の関子嶺温泉で水遊びに興じる台南第二高等女学校の学生。(国立台湾博物館収蔵。写真提供=玉山社)

1924(大正13)年の台湾。上は、台北郊外の温泉地、北投の「北投温泉公共浴場」でリラックスする台湾総督府医学専門学校の学生、下は、南部・台南の関子嶺温泉で水遊びに興じる台南第二高等女学校の学生。(国立台湾博物館収蔵。写真提供=玉山社)

(塚越西穂)