紆余曲折あった李登輝氏訪日 支援した医師が当時の裏話明かす/台湾

【政治】 2020/08/06 12:11 文字サイズ: 字級縮小 字級放大
司馬遼太郎氏の墓を参拝する(手前右から)李登輝氏、孫娘の李坤儀氏、息子の嫁の張月雲氏=2005年1月2日、京都市

司馬遼太郎氏の墓を参拝する(手前右から)李登輝氏、孫娘の李坤儀氏、息子の嫁の張月雲氏=2005年1月2日、京都市

(東京中央社)先月30日に97歳で死去した李登輝(りとうき)元総統は2000年の総統退任後、心臓病の治療などを目的に日本を9回訪問した。李氏の訪日は、日本政府の対中関係に対する配慮を背景に、容易なものではなかった。退任後初訪問が実現したのは、退任から約1年後の2001年4月のこと。李氏の訪日実現に尽力した台湾出身の医師、大田一博(王輝生)氏は、当時の裏話や心境を中央社に明かした。

▽退任後初訪日 妨げようとする日本政府に「肝っ玉小さい」

大田氏は2001年の訪日時の出来事をこう振り返る。訪日に当たり、当時の首相、森喜朗氏が派遣した代表と李氏側の代表が大田氏の家に集い、「東京や京都に行かない」「政治家と接触しない」「記者会見を開かない」「訪日前に行われた署名活動の結果を公表しない」の4つの条件で合意した。この条件の下で、日本政府は李氏へのビザ(査証)発給に同意した。当時の河野洋平外相はビザ発給に反対しており、李氏訪日を支持する小池百合子衆院議員(当時)との間で意見の衝突が生じていた。

「当時の森政権は李氏が自発的に諦めることを望んでいたようだった」と大田氏。だが、李氏は同年4月15日に台湾で開いた記者会見で、「日本政府の肝っ玉はネズミより小さい」と非難し、「人道的な理由ですら日本に行けないなんて、おかしすぎる」と不満をあらわにした。

李氏が曽文恵夫人と関西国際空港に降り立ったのは、会見から1週間後の4月22日のことだった。これは李氏にとって16年ぶりの訪日となった。

▽退任後2度目の訪日 母校・京大への訪問叶わず

その3年後の2004年12月、李氏は総統退任後2度目の訪日を果たす。この時は観光を目的とした家族旅行で、ビザ申請時には「記者会見を開かない」「講演をしない」「政治家と会わない」との条件が付けられた。李氏一行は名古屋や金沢、京都を巡り、京都では恩師である柏祐賢・京大名誉教授と61年ぶりに再会した。

この時の訪日では、かつて学んだ京大農学部への訪問も予定されていたが、あと一歩のところで実現しなかった。雪が降る中、校門の前をうろうろする李氏の姿は、台湾の同行記者をいたたまれない気持ちにさせた。テレビを通じてその様子を見た多くの国民も、悔しい思いを抱いた。台湾メディアは当時、京大が李氏を構内に入れなかったのは、中国の顔色を伺ったためだと報じた。

訪日最終日、作家の司馬遼太郎氏の京都市内の墓を参拝してから日本を離れた。

▽ 「台湾人に生まれた幸せ」

この10年前の1994年、台北で司馬氏と対談していた李氏。その際、「台湾人に生まれた悲哀」に言及し、台湾人が400年を超える歴史の中で自身の国家に何もできないことの悲哀を説明していた。

友人である司馬氏が亡くなり、時代も変わった。台湾は静かな革命を経て、華人世界で唯一の自由民主主義国家になった。大田さんはこう話す。司馬氏の墓前で李氏は、晴れ晴れとした気持ちで「台湾人に生まれた幸せ」を伝えていたようだった―と。

(楊明珠/編集:名切千絵)